壁の穴について

いつまでもお客様と心を通わせていたい。
壁の穴の名前の由来です。

田村町にわずか6坪のスパゲティ専門店「HOLE IN WALL」誕生。
百円のスパゲティが外国人客を中心に爆発的人気に。

1948年(昭和23年)に横須賀走水海岸でCIA極東長官であるブルームと運命的な出会いをした成松孝安は、彼のすすめで渋谷区のブルーム邸で執事として、邸で行われた戦後史に残る「火曜会」で食事のサーブ。海外の一流シェフの料理を目の当たりにする。

1953年(昭和28年)、火曜会が解散となり、ブルームの援助を受けて田村町に6坪のスパゲティ専門店「Hole in the Wall」を開店。桜の木のテーブルが3つとカウンターがあるだけの店であったが、洒落た雰囲気があった。メニューはスパゲティA・B・Cの3種類で、Aはミートボール付きで、200円。Bは麺大盛りで150円。Cがレギュラーで100円。当時、東京でスパゲティが食べられる店は、他に帝国ホテルをはじめ3軒しかなく、ちなみに帝国ホテルは960円であった。100円スパゲティがアメリカ軍の新聞「スターズ&ストライプス」に紹介され、東京中の外国人が来店するようになった。


“店外重役”と呼ばれる常連とともに、試食を繰り返しながら、新しいスパゲティ・ソースを開発。​

この時からすでにオーダーボイルでアルデンテを出していた。スパゲティは世界中のものを取り寄せ、メーカーのラベルをはずして茹で、みんなが美味しいというものを選んだが、結局、外国産のスパゲティではなく日本産のものであった。成松は、このスパゲティをさらに日本人の口に合うように改良させる。

店の近くにはNHKや農林省、外務省があり、後のNHKの局長やイタリアで育ったオペラ歌手など“店外重役”と呼ばれる常連が増え、みんなで試食を繰り返しながら「アサリの殻付きスパゲティ」や「ミートソース」「ブラウンソース」「カレーソース」などを開発。店外重役が“よし”というまで研究を続け、また、その他多くのスパゲティ愛好家達によってさまざまなメニューが育てられていった。

しかし1958年(昭和33年)、田村町にビルが建築されることになり、テナントは交渉がうまくいかずに、「Hole in the Wall」は閉店することになる。


納豆ごはんをヒントに、納豆スパゲティを思いつく。​

1958年(昭和33年)、「Hole in the Wall」を閉店した成松は、磐梯の新設スキー場の支配人となる。ここで、高松宮様が猪苗代の納豆ごはんを食べられるのを見て納豆スパゲティを研究。また、シメジや椎茸のスパゲティもこの時期に下地を作った。


渋谷宇田川町に「壁の穴」開店。
店外重役とともに200種類以上ものメニューを開発。

「Hole in the Wall」閉店から5年後の1963年(昭和38年)、渋谷宇田川町に7坪、カウンター席15席で「壁の穴」を開店。ステーキ、ドミグラスソースなどあらゆるものを手がけ、その数は200種類以上にもおよんだ。

たとえば、北海道のお金持ちの息子で、オーボエの名手だったSさんの好物は、レタス、チコリ、クレソンなどの洋野菜の上に冷ましたスパゲティを乗せてドレッシングで食べるサラダスパ。彼のあだ名が“ぼっちゃん”だったことから、このメニューは“ボッチャリーノ”となる。また、N響のホルンのTさんがキャビアを持参し、スパゲティにのせてくれといったことから、キャビアのかわりに「たらこスパゲティ」を考案した。

ソーセージ、ベーコン、ステーキすべて使ったスパゲティ「若者のアイドル」は、Y楽器の社長とスタッフのアイデア。そして、椎茸を5枚バターソテーしてスパゲティにあえて綺麗にのせた「シャネルNo.5」は、香りが美味しいからと有名女優K.Tさんが命名。


この店名はシェイクスピアの有名な戯曲「真夏の夜の夢」に出てくる言葉 Hole in the Wall(壁の穴)からとったものです。
恋人同士が壁に開いた穴を通して囁きあうというシーンがありますが、
原作では二人が結ばれるまでの障害を壁にたとえています。
つまり、「壁の穴」は障害を乗り越えて心を通じ合わせるために存在したのです。

この話のように、お客様との交流を大切にしたい。いつも心を通わせていたい。
そんな想いを込めて「壁の穴」という名前をつけたのです。
そして、その名前の通り今日まで、お客様と温かく心を通わせ続けてこれたと、そう信じています。